作品を評価するとき、点数とか星の数とかつけてる人とかいますよね。
ああいうの、絶対破綻すると思うのは俺だけでしょうか。作品評価するとき、あんなんつけては絶対にやらない。わかり易いとか言う利点があるんでしょうけど、短期間というか、一度に全部評価するのならともかくも、長期的にだったり、徐々に評価作品を増やしていくのならば、絶対に配点とか偏ったり無理やりになったりすると思うんですよね。
絶対いつか破綻します。
これを避けるために最上級の作品をこれは!というもの以外につけないとか、100点満点を越える点をつけるとか、色々やりますが、それってかなり無理やりですよね。面白いところでは、おすぎさん辺りが、映画をみるのにどれくらいの価値があるかをお金で示していたのがあったけど、これのほうがマシかとおもうけど、でもこれも0円以下はないわけで、基準を1000円にしちゃうと底がつけにくい。2000円だと2倍面白いということかってなっちゃったり、意味わかんなくもなるだろうし。実際おすぎさんはマトリックス2で100万円とか意味わかんないこといって、そのコーナー終っちゃいましたが(笑)

で結局、
作品評価ってのは、相対的なものでしかないんです。
自分の中に知らず知らずのうちに、基準となる作品というのがあって、それとの比較として面白いといったりつまらないといったりという。基本的に相対化されて出てくるもんなんです。つまり、そもそも点数とか星とか絶対的な数値によって評価することは不可能なんです。
基準がない頃だと、評価は真っ白ですから、単純にわかりやすいものとか面白いんですけど、ある時、基準となる作品に出会っちゃったりすると、それを基準として、作品を見るようになるんです。
で、ここでいう基準というものは、自分が見た中でものすごく面白いと思ったものなんです。偏差値みたいに平均的な評価基準ではなく、どこが天井なのかっていう基準になるんです。
もちろん、そうやって評価しまうから、基準が変われば、すべての評価は変わってしまうんです。最高作品がずっと変わらないことは稀で、作品を見るに従い、どんどん基準となる作品=自分の中の最高作品が入れ替わり、しかも、幅が広くなって基準の数も増えたり、どんどん前見た面白い作品が普通なところまで落ちたりもします。まあ、ずっと長い間変わらないという人もいるでしょうけど。最初から最高作品を見てしまえば、後はくそ詰まらんと思っちゃうでしょうね。
基準からの比較を言い換えれば、基準以下はどれだけ基準よりも面白くないかという度合いともいえるかもしれません。

ここで、面白い話があります。某テレビ番組でのこと。おいしいインスタントコーヒーの入れ方って内容で、道行く人にコーヒーを入れてもらい、素人2人とプロ1人がそれに判定を出すということをやってました。判定も美味しいか美味しくないかしかないんですが、素人2人は美味しいとか美味しくないとか半々ぐらいで判定してました。一方、プロのほうは手厳しく、全て美味しくない評価をだしてました。結構、入れ慣れている人のコーヒーで素人2人が美味しいと評価したときも、プロのほうは美味しくないという評価だったり、全く美味しいという評価をしません。厳しすぎるんじゃないかと素人2人も思い、だったらお前が美味しいコーヒーとやらを入れてみろよヽ(*`Д´)ノゴルァ、ということになって、プロがコーヒーを入れてみることになったんです。で、素人2人はプロの作ったコーヒーを飲んでみてその美味しさにビックリ。今までのコーヒーはなんだったのかってぐらい美味しくて驚いているようでした。で、続いて道行く人の入れたコーヒーの評価をするのですが、素人もプロのように道行く人の入れたコーヒーの全てを美味しくないと評価するようになりました。
つまり、素人2人は最初美味しいコーヒーというものの基準が相当低い位置にあるか、全く基準となるものを持っていなかったんですね。で、プロのコーヒーを飲むことによって、その基準を高いところに設定することができたので、本当に美味しいものかどうかを判定することができるようになったのだろうと思います。
作品評価も似たようなもので、基準がないうちは面白いと思うことでも、一旦基準となる作品ができてしまうと、面白いとは言えなくなってきますね。

このように、評価とは固定された絶対的なものではなく、ある基準からどれだけ下にあるのか、ということになりますから、その人の基準を知ることって、非常に重要になってきますね。
基準となる作品って、その人の趣向だったり、経験的な背景があったりと、人それぞれで絶対的なランクが必ずしもあるわけではないんですが、それでもその人というものを知るという意味では非常に重要なものだと思えます。
ま、当たり前ですか。。。

で、評価の仕方は点数や星などはしないほうがいいと、いうのが今回の言いたいとところなんです(話が飛びましたが)。
ああ、あと部分的に絵がいい、音楽がいい、ストーリーがいいと分けて評価しちゃうのもあまりいい方法ではないですね。それぞれがよくても悪い作品は(多分)ありますし、逆にそれぞれを単品で見たらよくなくても、まとまりとしてみたらいい物だってありますから。高級食材で料理しても作る人によっては不味いし、台所の残りでもプロがつくれば美味しい料理も作れるのと同じです。分割評価は作品評価にはあまり意味はないと思いますね。さらに、作品評価と同様に点数つけて破綻しそうだし。
基本的に、その映画の面白いところを簡潔に表現するために、一言この作品がどういったものかということを一行寸評か何かを書けばいいんですよ。多分。それしか思いつかないが。ほかの事をやったほうがいいと思います。
どうしても分類したいときは、最高傑作、名作、凡作、駄作、愚作、とか大まかに分ければ、簡単ですね。やっぱ凡作かな、と思えばその分類を変えるだけでいいし、点数なら全部入れ替えなきゃいけないとかを考えると、非常に楽です。




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2006.07.24 自由とは
「自由」とは、何をやっても誰からも制されることのない状態のことである。
偉そうな人が言う、「責任」なんていう奇怪なものを付随してなどいない。何をしてもいい、なんでもありだ。

だが、この世界にそんな「自由」は存在せず、
言論の自由や、宗教の自由など、限定的な自由があるだけである。

それでも、逆に考えれば、言論なら何だってしてもいい、ということになる。
それは限定的ではあるが、まったくの自由である。何をしてもいい。誰からも制されない。もちろん責任などない。世の中、ハッピーだ。こんなにうれしいことはない。

ただ、その後に他人が訴える自由を得るということを知る必要があるが。
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とりあえずガンダムネタで。

ガンダムでよく言われることに、「ガンダムは試作機なのに量産機であるジムよりも性能が高いというのはおかしい」、ということがある。
確かに、一般に試作段階のものを悪い部分を改良して、よくなった時点で量産化が始まるのではある。だから試作機よりも劣っているようなもの(兵器)などはほとんど存在しない。

だが、ここで言っておきたいことがある。

ガンダムはジムの試作機では決してない!

ガンダムは連邦モビルスーツ全体の試作機である。

ガンダムは、量産ジムを製造するための試作ではなく、あくまでモビルスーツを開発するための試作機なのである。だから、ジムにはジムの試作機(試作型ジム?)なんてのが別に存在するはずである。これがジムの試作なのであって、ガンダムは試作ジムではない。

もっと言えば、連邦がモビルスーツ運用のノウハウを得るために作った試作機である。いや試作機というよりも実験機といったほうがいいかもしれない。
実験のためには、あらゆる部分で当時の最高の技術でもってやる必要がある(と考えるのは素人考えかもしれないが、普通に考えれば、性能の悪いもので実験するなど考える人はいない)。量産化のために、後に削り落とすかもしれないが実験段階では、いいものを使用するはずだ。

簡単のため例えを出すと、ガンダムはレース用に改造され技術の全てをつぎ込まれた車であり、ジムは一般の市販用の車であるといえる。
レース用の車が、市販用の試作ではないことはいうまでもないだろう。確かにここで使われた技術が市販者にフィードバックされることはあるだろうが、試作という意味では決して存在しないことは明らかである。


以上より、ガンダムがジムの試作ではないので、ジムよりも性能がいいことがおかしいわけではない。いや寧ろモビルスーツの実験機が性能が悪いはずはない。寧ろよくなくては話がおかしくなるのである。




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怖いものがどうも好きらしい。
ていうか超常現象関係は昔から食い入るように見ていたと思う。
最近はどうもそういう番組がないが、あれば必ず見てしまう。
くだらないものも多々あるが、なぜだろう止められない。

レンタルビデオで、「本当にあった!呪いのビデオシリーズ」とかも
、個人的には面白い。ビデオに写った奇怪な映像を紹介し、たまに検証とかもする。それだけなんだが、なんと20巻以上も続く長編のシリーズなのだ。奇怪さもさることながら、ナレーターもかなり雰囲気のある声&語りで、このビデオには欠かせない。まあ大部分がヤラセとかなんだろうが、ヤラセでも何でも面白いので、これからもどんどん作ってほしい。

怪談を語るといえば、稲川淳二さんを置いてほかにいないだろう。雰囲気もあって、稲川さんそれ自体も相当怖い(笑)まさに怪談を語るために生まれてきたような人だ。
この人にも今後どんどん活躍してもらいたい。
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パクってなぜ悪いか!

よくある作品は何々のパクリだ!といわれることがありますが、それはその作品の悪い理由を挙げるときよく言われます。でも、それは本当にその作品の面白くない理由でしょうか?単純にその作品が面白くない理由を見つけようとしたときたまたまパクリという単語を見つけてきただけの話ではないでしょうか。パクリというものは見た目に分かりやすく(誰にでも分かるというものでは必ずしもないですが)、批判の対象にしやすいだけなのではないでしょうか。

多かれ少なかれほとんどの作品は過去の作品のうえに成立しています。ですから、そもそもパクリでない作品などありえません。

パクられもせずに一人前になった作品がどこにあるものか!

ジャンルという言葉を考えてみてください。一般に「ジャンル」と呼ばれるものは、例えばSFとかファンタジーとかミステリーなどがあります。しかしこれらは、有史以前から存在するわけではありません。必ず初めに考え付いた人がいて、それはその人個人のオリジナリティだったわけです。そして「ジャンル」とは、それが次第に発展していく中で確立していったものです。「発展した」という言い方をしましたが、実質的な意味においては「恒常的にパクられ続けて一個のまとまりになった」に過ぎません。SF然りファンタジー然りミステリー然りです。それらは、最初に始めた人が必ずいるのと同じくそれをパクった人も必ずいたわけです。で、その人たちがパクリつつも改変させ磨き上げ次の世代へ継承していく過程があってこそ、それらが発展してきました。寧ろパクリなしでは発展などなかったはずです。
つまり、ジャンルに分類されるということは、同時にジャンルとしてパクリ続けていく過程のひとつに組み込まれているということであり、パクリなのです。ジャンルに分類されえない作品が少ない以上、殆どの作品はパクリとしてみることができるでしょう。
結局、作品の内容がジャンルとして確立していないときには「パクリ」と言われ、確立していれば「ジャンル」といわれる、それだけに過ぎず、パクリを問題として取り上げることはあまりにも無意味です。
だから、パクリそれ自体は悪ではありえません。むしろ善といえるでしょう。そうすることによって作品全体が発展してきたのは事実ですから、寧ろどんどんパクっていったほうが、良いのです。
問題はその後で、パクリを無駄に劣化させ作品の質を恐ろしく減退させる場合も多々ありますが、そのときはパクリ自体が悪いのではないのですから、パクリを批判せずに、作品の出来の悪さをこそ批判すべきです。下手なやつはパクろうがオリジナルでいこうが詰まらないのですから。

パクリ批判なんて所詮はただの飾りです、偉ぶっているやつにはそれがわからんのです

パクリ批判など、その作品を批判したいだけの何者でもありません。何度も言いますが、パクリ自体は悪ではないのですから、批判自体的外れです。本当はそんなところを批判するべきではありません。実際、批判する人は、そんなところを批判したいわけではないはずです。結局はその作品が面白かったか否かがその作品の評価のポイントですから、パクリ批判はやめましょう。

(※ただ盗作とか著作権に違反するのは当然だめですけどね)
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最近、といっても時間は結構たつが、デスノートが実写映画化されていますね。アニメかもされるとか。また、ゲド戦記もジブリによってアニメ映画化されるようです。

これらはどちらも原作もちの作品です。
デスノートはジャンプに連載していた漫画からで、ゲド戦記は知る人ぞ知る世界で有名なファンタジーの小説からです。
このように原作がほかのメディアによって再発信されることは非常に多く、アニメ化小説化映画化ゲーム化漫画化などなどその組み合わせとしては多岐にわたります。ひとつの作品が複数のメディア化する事もざらです。
この時、よく言われることは原作との兼ね合いです。つまり、原作にどれだけ忠実であったか、あるいは原作ファンや未読者層とのバランスなどです。
特に、小説や漫画が、映画やアニメになったとき特に多い気がします。なぜなら分量的に圧倒的な差がありますし、逆に原作にはない情報(絵や音)などを付加せざるを得ないからです。その中で、既読者は違和感を感じざるを得ない理由は必然のものとしてあるわけです。それは大きいか小さいかだけであり、なくなることはないでしょう。

と、ここまで当たり前ですね。
つまり、何がいいたいかというと、ぼくはこう思うようにしているんです。というよりそうだと思い込んでいるわけです。
つまり
原作以外はすべて二次創作!

です。もっと言えば、
原作以外は原作の内容をほぼ100%パクった作品!
ですかね。
作品を模倣することを俗にパクリといいますが、○○化も単純に原作元がパクることを公認しただけのパクリであると確信しております(?)
パクリという言葉に語弊がありますが、要素として同じ物を使ったという意味であればどんな言葉でもいいです。要は、人様の作ったものと同じ材料を使い料理したものと同じことだということです。

だから、○○化は、筋書き・キャラクター・台詞などなど、全部あるいは一部の要素をパクって作ったものにすぎないのです。
だから違うのは当たり前。同じ食材と同じ作り方をしても人によって味付けが異なれば、まったく違う料理となるのと同じことです。

ま、はっきり言ってだからどうしたの?って内容ですが。。
少なくとも原作と違うことは私にとって何の問題でもない、ということです。

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